ナッツ ダイアリー〜その時々の時事や感情に任せて

歴史と旅が好きな元教員の書く徒然

台風の記載の仕方についてー世界台風の呼び方

どうも夏目です( ^ ^ )/□

 

台風が日本に来ていますね〜

関連する画像の結果 

 

今来ているのが台風5号だそうです。

 

ということは、

 

 

 

 

 

今年に入って実はもう4回来ているということになりますが、あんまり気にしてないですよね

 

 

ほとんどか本州に来なかったり、途中で熱帯低気圧に変わったりして、なくなったりしていてあまり被害を受けた感じがしないのが私です。

 

 

しかし、実際には多くの被害を出している地域もあるのは事実です。

 

 

それを今回は過去の歴史を振り返ったり世界の台風事情と照らし合わせながら、書いていきたいと思います。

 

 

日本の台風の歴史について

日本は世界的にも台風が良く来る国です。

 

その中でも、沖縄が一番よく来ています。

沖縄 に対する画像結果

 

 

よく台風銀座なんて言われたりもします。

 

 

私が住んでいる 東海地域では今から約60年前の

 

1959年9月26日~27日に発生した

 

 

伊勢湾台風

伊勢湾台風 に対する画像結果

が多くの被害をもたらしました。

 

犠牲者がおよそ5000人、被災者が全国で150万人も出たといわれております。

 

 

日本では基本的には台風は1号、2号と数字で決めますが、大きな台風は名前がついております。

 

 

では海外ではどのようになっているのでしょうか?

 

 

海外の台風について

 

海外では台風はどのようにして伝えれているのか?

 

 

 

アメリカでは

 

 

ハリケーンと呼ばれております。

 

 

名前の由来はマヤ神話のフラカンという神様からきているそうです。

 

 

基本的にハリケーンに名前をつけるときは、アルファベット順に名前をつけていくようです。

 

昔は女性の名前のみでしたが、今は男性の名前も使われているようです。

 

 

日本で有名になったものでは

 

2005年に発生したハリケーン

カトリーナ ハリケーン に対する画像結果

 

カトリーナがあります。

 

 

 

犠牲者が約2000人にも上ったそうです。

 

 

 

アメリカではハリケーンの名前は何度か使われるようなのですが、有名なものは名前が引退するようです。

 

 

 

他の地域ではどうなっているかというと、

 

 

 

インドのほうではサイクロンと呼ばれているようです

 

 

 

 

名前の由来は、サークルのようにグルグルするということだからだそうです。

 

 

 

このように国や地域によって違う台風ですがなぜ発生するのでしょうか?

 

 

台風発生のメカニズム

 

台風とは、熱帯低気圧です。熱帯低気圧とは熱帯の海上で生まれた低気圧のことで、規模が小さければ台風といわれないのですが、規模が大きく、災害をもたらすほどの大きさになると台風と呼ばれるようになります。

 

 

ハリケーンもサイクロンも要するに台風ですが、発生する場所が違うので名前が違うだけです。その中でもハリケーンが比較的に規模が大きいようです。

 

 

 

 これからのシーズン台風には気をつけていきたいですね〜〜 

 

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世界平和への祈りをこめてー広島原爆投下の日に考えらさせれたこと

どうも、夏目です。

 

 

 

 

さて今日は何の日か皆様ご存知でしょうか?

 

 

 

 

今から72年前の1945年8月6日午前8時15分

クリックすると新しいウィンドウで開きます

 

広島に原爆が投下されました。

 

 

 

 

今日の朝にお会いした方ともそういった話をしました。

 

 

 

 

 

今私たちはごく当たり前のようにほとんどの方が何不自由ない生活をしていると思うのですが、ほんの70年前には日本のほとんどが焼野原でした。

 

 

 

 

その後の日本は敗戦国とは思えないほどの復興を遂げて、今では世界有数の経済大国となりました。世界からも賞賛される国となりました。

 

 

 

 

その一方で海外の方々と接した際に、多くの方が自分の国の歴史を知らないで恥ずかしい思いをしたことでしょう。

 

 

 

 

 

なぜそうなったのか?

 

 

 

 

 

それは戦後の歴史教育が大きく影響しているしているからです。

 

 

 

 

 

日本の歴史教育に大きな影響を及ぼしたWGIP

 日本の歴史教育が大きく変わったのが1945年8月15日の戦争に負けたときからでした。

 

 

 

いわゆるポツダム宣言を受諾したときからでした。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

 

 

 そこから日本に対するアメリカの占領政策が始まりました。

 

 

 

ウォーギルトインフォメーションプログラム

(通称:WGIP

 

 意訳:戦争の罪悪感を与える為の情報操作戦略

 

具体的にどんなことをしたかというと

  • 日本がとんでもなく悪いことをした
  • 日本が悪いことをして反省しなければならない
  • 日本は悪いことをしたから反省しなければならない

 

「日本人は戦争を起こした張本人だ!」という意識を植え付かせ、罪悪感を感じさせるものです。

 

 

そうすれば、今後、「戦争」というものを意識的に選択しない国民が出来上がるだろうっていう戦略です。

 

 

アメリカは日本が再び武器を持って立ち向かってくることがないように、日本人の心を折る方法を使いました。

 

 

その結果として、

 

  • 自分に自信がもてない人の増加
  • 日本のことを好きになれない日本人の増加
  • 両親や先生などといった人を尊敬で着ない人の増加

 

またメディアもうまく使うことによって、政治に無関心な若者を増加させることにも成功しています。

 

 

 

そういった一連の流れを通してみると、アメリカの占領政策はうまく行ったような感じがします。

 

 

 

しかし、それらも最近では見直される時期になっているような気がします。

 

 

 

何が大きな要因かというと、インターネット・SNSの出現です。

 

 

 

今までは、テレビや新聞といった政府が管轄しているようなメディアしかありませんでしたが、インターネットやSNSによる個人の発信ができることによってさまざまな情報を得られるようになった結果、情報を選択できるようになりました。

 

 

 

 

 

 その結果、さまざまな価値観や考えた方が生まれるようになって教育やメディアの情報に疑いの目を持つようになりました。

 

 

 

これからメディアや教育を鵜呑みにするだけでなく、自分で考えを持って日本の歴史を見る人が増えていくような気がします。

 

 

そうなることが過去に戦争で亡くなった方への一番の供養になるのではないかと私は思います。

 

 

 


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自分の仕事について―放課後等デイサービスと障がいについて

どうも夏目です*(^o^)/*

 

 

 

 

今日は私の仕事について書きたいと思います。

 

 

 

 

歴史などのことをよく書いているので、教育関係の仕事をしているのかなと思われがちですが、若干違います。






私が従事している仕事は放課後等デイサービスという職業です。なかなか耳に聞き覚えがない人が多いと思います。

 

 放課後等デイサービスとは

 放課後 に対する画像結果







放課後等というワードから子どもや学校をイメージされた方が多いでしょうか?






まさしくその通りで、子どもとかかわる仕事ではあるのですが、学校とは違った施設です。





ただしこれと似たような施設で、学童保育託児所などがあります。

 

 

それらとは、どんな違いがあるのかイメージがつきにくいですよね...




それらとは大きく異なっている点があります。





それは障がいのある子を預かるということです。
(少し余談になりますが、昔は障害者という言葉が使われていましたが、現在は障がい者と表記されることが多くなっています。これは言葉のイメージによる誤解をなくすためといわれています。)



ですので放課後等デイサービスの特徴といえば、障がいのある児童・生徒を預かり、学習能力や生活能力の向上といったことをみんなで学んでいく施設だと捉えていただくと嬉しいです。

 

 


ただし昨今では障がいの種類なども増えてきていて、通常学級の子どもでもこういった施設に通ってきている子どもも増えてきています

 

 

どんな子どもが通っているのか?

 

 

 

例えば

授業中席を離れたり、忘れ物がものすごく多い子がクラスにいたりしませんでしたか?

忘れ物 に対する画像結果

昔の指導や考え方では、「親のしつけが悪い。」「怠けている」といった精神論的な考え方で子どもを見ていましたが、これらも障がいとして認められるようになってきました。

 

ADHD(注意欠陥・多動性障害)とこれは呼ばれるもので、脳の機能によって他の人よりも覚えたりすることが苦手な人もいます。

 

 

他にも、自閉症スペクトラムやLD(学習障害)といったものも最近では障害として認められるようになってきております。

 

 

 

 

これらのことは一般的に発達障がいと呼ばれているものです。

 

 

 

そういった子どもたちの支援も放課後等デイサービスでは行っています。

 

 

最近になって認知されるようになったため、まだまだ社会的に知れ渡っておらず理解がされていないのが現状です。

 

 

 

特に子どもは検診などでわかる場合があるのですが、やっかいなのは大人の場合です。

 

 

 

 

 

社会的に上の世代の人になればなるほど理解が低く、精神論で片づけてしまいがちですがきちんとした支援の仕方をすれば社会で大活躍するもあります。

 

 

 

ではどういった支援のやり方をすればよいのか?

 

 

 

長くなるので今日はここまでにしたいと思いますので、また次回以降お話しします。

 

 

それは次回以降詳しくお話ししたいと思いますので宜しくお願い致します。

 

 


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諸外国と日本を比較した際の城の違いについて-生活環境の違いから考察

どうも夏目です(^人^)

 

気が付くと2か月間も放置していました。

 

生活環境を変えてWiFiが使えるようになったので、再び書きます。

 

いつもは歴史の人物のことを書くのですが、今回は人物ではなく、建物について書きたいと思います。

 

 城とは?

皆さんは「城」を見たことがありますか?

 

 

日本にある城といえば、

 

世界遺産姫路城

姫路城 に対する画像結果

 

巨大要塞だった大坂城

 大阪城 に対する画像結果

ひこにゃん彦根城

 彦根城 に対する画像結果

などたくさんあります。

 

 

ちなみに私は愛知県在住であるので、名古屋城岡崎城行ったことがあります。

 

 

そのほとんどが城を中心に堀があり、その周りに城下町という町が形成されているものです。

 

絵で描くとこんな感じです。

 f:id:nattsu1991:20170726233209j:image

 

城の周りは掘りを築いて防塞機能を高めていますが、一般市民の住居までは囲んではいません。もちろん例外的に小田原城のように防塞機能を高めていた街も存在しておりましたが、ほとんどの街が城の防塞が中心的でした。

 

一方海外の城はというと

 f:id:nattsu1991:20170727165248j:image

日本とは違って城だけでなく、街全てを城壁で囲ってまちづくりがされています。

 紫禁城 に対する画像結果

サンマリノ 城 に対する画像結果中国や西洋などの城と言われているのは、一般的にこれに該当します。

 

ではなぜ日本とは諸外国の作りが違っているのでしょうか?

 

他の民族からの侵略を受けた大陸とそうでなかった日本の違い

 

防塞機能を日本とは違って高めているということは、明らかにこれは敵がいることを想定している物として考えられます。

 

実際にそれが何であったかというと、

 

遊牧民族です。遊牧民族 に対する画像結果

 

彼らは基本的にどこか決まった場所に定住するわけではなく、家畜のえさとなる牧草が生えているところを探しながら生活をしています。

 

そのために、よく食料がなくたったりすることがあります。

 

そういったときに襲うのが定住生活をしている農耕民族です。

 

農作物を育てているので比較的に安定して食料を得ることができます。

 

それを狙って遊牧民族はやってくるわけです。

 

ただそれが起きるとわかっていてじっと指をくわえて待っているわけではありません。

 

そのために城壁を作るわけです。

 

 

中国の世界遺産にもなっている万里の長城は、漢民族の人たちが異民族の襲来に備えて作ったのは有名な話です。

 

万里の長城 に対する画像結果

 

だったら遊牧民族が来るのがわかっているなら、先に攻撃して倒せばいいじゃんと思いますが、それはできません。

 

 

なぜなら、

 

 

 

彼らがどこに住んでいるはわからないからです。

 

 

わかりやすくいうと、

ホームレス に対する画像結果

 

ホームレスの人がどこに住んでいるのかなんてわからなくないですか?

 

 

当時の遊牧民族もそんな感じであったので、都市に住む人はビクビクしながら生活するしかなかったのです。

 

 

ではなぜ日本は街を城壁で囲まなかったのでしょうか?

 

 

 

異民族の襲来を受けなかった日本 

 日本がなぜ城壁を築いて街づくりをしなかったかというと、

 

 

 

その必要がなかったからです。

 

 

なぜなら日本は異民族の襲来を受けていません。 (元寇など一部ありますが)

 

 

日本という国ができておよそ2600年です。

 

 

その間ずっと天皇家が存在し続けているのは、他の民族の襲撃がほとんどなかったからです。

 

 以前天皇家について下記の記事で詳しく書きました。

nattsu1991.hatenadiary.jp

 

 

そんな国は世界中探しても日本しかありません。

 

 

だからこそ日本独特の世界にはない建築の城が出来上がったのかもしれませんね。

 


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本当の賢人とは何か? 小早川隆景に見る時代を捉える失敗しない生き方

どうも、夏目です。最近いろいろなことに興味があり、いろいろな話を聞くことがあるのですが、そのときにすぐにやるかやらないかの選択をすることが多い気がしています。

 

そんなときにある戦国武将の生き方が今の自分や今までの過去の自分に一番しっくりきたので書きたいと思います。

 

誰かというと、、、

 

 

 

この人です。

 

 

ぜんぜんピンとこないなあ~

 

 

書いている人がそう思うぐらいですから、一般的にはもっとピンとこないと思います。

 

 

この人は、小早川隆景です。

 

 

名前を言ってもピンとこないと思うので細かく書きます。

 

 

 

毛利家の三本の矢であり、毛利家を支える両川として 

 小早川隆景毛利元就の三男として生まれます。

 

毛利元就中国地方で大きな勢力を誇っていた戦国大名の一人です。

 

下克上の時代をまさしく知略をもってして成り上がった人です。

 

 

その父毛利元就が残した言葉として有名なのが「三本の矢」です。

 

 

これは元就が息子である隆元、吉川元春小早川隆景の三人の兄弟が協力して毛利家を支えてほしいという願いをこめて贈ったものだそうです。

 

 

この三本の矢は現代にも生きており、

 

 

クリックすると新しいウィンドウで開きます

 

Jリーグのサンフレッチェ広島の名前にも使われています。

 

 

 

そんなこんなで隆景は毛利家を支える一本の矢として生きていきます。

 

 

 豊臣秀吉に気に入られても貫く毛利家への忠節

 

 小早川隆景は非常に知略に優れた武将でした。入念な根回しや、情報収集によって時代の流れを的確に読むなど他の武将とは違った視点で戦国時代を見ていました。

 

 

そういったところはその時代のほかの武将からも高く評価されていました。

 

 

かの豊臣秀吉は彼を部下に引き入れようと毛利家の一家臣の身である隆景に対して伊予の国一国を与えるという異例の措置をとります。

 

 

現代的にいうと、大企業のトップの秀吉が子会社の一社員を他のグループの子会社のトップにするということです。

 

 

そうまでして隆景を家臣にしたいという気持ちがあったようです。

 

 

普通だったら喜んで引き受けますが、隆景は毛利家の教えを守り、あくまで毛利家を支えるという立場をとり続けます。

 

 

 そこがまた賢い立ち回りだとつくづく思います。

 

何事にも慎重に考えて決断する性格

 

 

小早川隆景は、ものすごく物事を考えて行動する人でした。

 

 

これは現代のようなスピードが求められる時代には少々逆行するようなところがありますが、私はこれがものすごく的を得ているような感じがします。

 

 

 彼の言葉にこんな言葉があります。

 

 

 

~長く思案し、遅く決断すること。
思案を重ねた決断であるなら、後戻りする必要はない~

 

 

 

世の中の流れが非常に速く、スピーディーな決断が求められる時代だからこそものすごく大切なことなのではないかなと思います。

 

 

早く決断することは一見するといいことのように思えますが、その反面間違えることも多いです。

 

 

当時天才と呼ばれていた豊臣秀吉の優秀な家臣の一人黒田官兵衛に対しても、「私が決断をするときは、考えに考え抜いた挙句ひとつことを選びます。あなたは頭が鋭いから勘に頼ってすばやく決断なさる。そのために、場合によっては仕入れた情報に誤りがあって決断が悪い方向へ導くことがあるでしょう。私はあなたほど頭がよくないから、そうせざるを得ないのです。」といって諌めたそうです。

 

彼は部下に対しても、

急ぐことはゆっくりせよ。

すぐにわかりましたというやつにわかったやつはいない。」と物事に対してじっくり考えることをといたそうです。

 

 

彼は死ぬ間際にも遺訓を残しており、

「天下が乱れても、輝元は戦のことに深入りしてはいけない。自分の領国を守り、失わないように心がけるべきだ。なぜなら輝元には天下を動かすだけの器量がない。もし天下の戦の謀に関与すれば、必ず今の領地を失い見を危うくすることになる。」

 

 

そしてその遺訓を輝元が無視した結果、毛利家は大きく衰退することになります。

 

 

隆景からわかること

 

 私はどちらかといえば考えてから行動することが多いので、最近のものごとのスピーディーさでは対応するのが正直なところ苦手であった。

 

 

しかし、小早川隆景の考え方を学んでからはじっくり考えて行動したほうが公開することは少なくていいなと思ったのでしっくりきています。

 

ビルバンで初めて行った歴史体験型イベント~そうだ甲冑を着よう!~

どうも久しぶりです。夏目です。

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なんと約2ヶ月近くブログを放置していました。

 

 

謝罪 に対する画像結果

ごめんなさい

 

 

これはやばいと10分ぐらい前に気づいたので久しぶりに書きます。

 

 

今日は好きな歴史のことで楽しいことができたことについて書きます。

 

 

 約2ヶ月ほど前からとあるイベントの準備をしておりました。

 

 

 

それが、、、

 ビルバンです。

 

ビルバンとは、詳しくはこちらで

araikoyo.com

 

 

 

その中で私は歴史ロールプレイングというブースを担当していました。

自動代替テキストはありません。

 その中で実際に紙で作った甲冑を参加者の皆さんに来ていただくということをしました。

 f:id:nattsu1991:20170507123410j:imagef:id:nattsu1991:20170507123420j:image

 着るとこんな感じになります。

 

 

ちなみに冒頭のは赤備えです。

 

 

赤で有名な武将には最近流行の井伊さんや昨年大河ドラマになった真田さんがあります。

 

 

甲冑は僕が作ったものでは決してありません。名前をここでは出すことができないので興味がある方は直接僕まで連絡をください。

 

 

その甲冑を着てクイズを答えるというものを行いました。

 f:id:nattsu1991:20170507123944j:image

 こんな漢字でクイズの答えを隠しながら。

 

 

 

最初は来るのかなと不安でしたが、

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 何人か実際に来てくれて体験してくださってうれしかったです。

 

 

 

そしてそれで気を良くした私はビルバン学校でしゃべった後に15:30からしゃべった後は、

 

 

 

 

ずっとサボっていました

 

 

 

他で楽しいことやってましたからそちらに参加していました(笑)

 

 

 

 

カジノありましたし、ビルバンバトル楽しいし、

 

 

 

それと今日気づいたことで、

 

 

事前準備もほとんどしていない。

 

 

 

今回のビルバンで自分がしたことを簡単にまとめると

 

1.メッセンジャーでのやり取り

2.ブースで立って説明(約2時間ぐらい)

3.全力で遊んだ

 

 

3.が全体の8割以上を占めていたと自身をもって言います!

 

 

 

ということでちょっとだけ反省します!

 

 

ブログちゃんとまた書くので許してください。

 

 

 

 

今回だけでなく、定期的こういった歴史のイベントは続けて生きたいと思います。

 

 

私がやりたいことに少しずつですが近づいてきたように感じます。

 

 

やっていて楽しいと思うことが大事なので多くの人が楽しんで歴史について学べる機械を作って生きたいと思います。そのためには勉強が必要ですが、がんばって勉強します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

au3ji1

徳川家康が260年も続く幕府を開くことができた本当の理由について考える 第2部

どうも夏目です。

 

昨日は徳川家康について書きましたが、今日はその内容について続きからお話したいと思います。

 

nattsu1991.hatenadiary.jp

 

 

関東左遷から 秀吉が死ぬまで

 

前回家康が秀吉によって関東に左遷されたところまで書きましたが、そのときすでに48歳でこの時代では結構な年寄りになっているときでした。

 

 

 

ちなみに人間50年と歌った織田信長は48歳で死んでおります。かなりピンポイントでした。

 

 

なので今の社会人でいうところの

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定年退職し終わっているレベルですね~

 

 

 

しかし、そんなことには関わりなく家康の人生はまだ苦労の連続・・・

 

 

 

 

秀吉の家臣として天下統一の協力をします。

 

 

 

その証として実話関東に飛ばされる前の1586年に、秀吉の妹を嫁にさせられています。

 

 

 

その妹は

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すでに40歳をこえたおばちゃんだったそうです。

 

 

 

 

完全に嫌がらせやん!

 

 

そんなこんないろいろいろいろなことを家康は我慢していました。

 

 

 

そんな我慢の時代もいよいよ終わります。

 

 

1598年に豊臣秀吉が病没します。

 

 

そこからついに家康の時代がきます!

 

天下分け目の関ヶ原

秀吉が亡くなり、なぜ家康が力を強めていったのか?

 

 

 

なぜなら、秀吉の跡継ぎがまだ幼かったからです。



今でいうところの、

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 小学生ぐらいだったそうです。

 

 

当然政治を行うことは不可能であったので、家臣が行うわけですが、その家臣の中で筆頭であったのが徳川家康であったわけです。

 

 

 

それでうまいこと根回しなどをして豊臣政権を乗っ取ろうと思うわけです。

 

 

 

しかし、それに待ったをかける人がいました。

 

 

それが、

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石田三成でした。

 

 

彼は豊臣秀吉の家臣として財政を主に行っていたのですが、かねてから家康のことを危険視していました。

 

 

 

そこで、豊臣秀吉の家臣たちと一緒になって家康を討とうと考えました。

 

 

 

しかし、それで豊臣家の家臣が一致団結して家康を討とうと考えたかというとそうではありませんでした。

 

 

 家康が根回しをしていたので、三成率いる西軍につくのか、家康率いる東軍につくのか大名の中ではどちらにつくのか迷っている人が多かったそうです。

 

 

有名なのが昨年ドラマになった真田丸の主人公の

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真田信繁(幸村)の家族です。

 

 

彼らは

西軍ー真田昌幸(父)、真田信繁(弟)

東軍ー真田信之(兄)

 

 

 

 

といった具合に両方につくことによって大名として家が潰されるのを防ごうとしていました。

 

 

 

そして、いよいよ関ヶ原の戦いが起きるわけです。

 

 

その中で家康の根回しが成功し、結果として東軍が勝ちます。

 

 

その後西軍方について大名は家康が厳しく処分していき、1603年に江戸幕府を開きます。

 

 

 

いよいよここから完全に徳川政権の安泰かというとまだそうではありませんでした。

 

 

最後の敵豊臣家

 江戸幕府を開いた徳川家康でしたが、まだ安心はできませんでした。

 

 

なぜなら、豊臣家が残っていたからです。

 

 

関ヶ原の戦いには豊臣家は直接的な関与はしていなかったため、家が処分されてはおりませんでした。(ただし、間接的に石高は減らされている)

 

 

そのため、影響力の強い豊臣秀頼がいることは幕府にとっては目の上のたんこぶでした。

 

 

 何とかしたかった家康は1614年に方広寺鐘銘事件でうまいこと豊臣を討伐するための口実を得ます。

 

 

これは鐘の文字の中にある「国家安泰」が家康を字を分断しており、「君臣豊楽」豊臣の世が栄えて欲しいという意味合いで描かれているのでないかといつ口実です。

 

 

そんなこんなで1615年に大坂の陣で豊臣家を滅ぼします。

 

 

結局家康が統一できた理由はなにか?

ここまで家康が天下を統一して江戸幕府を開くまでの過程を描きましたが、一番大きな理由は何か?

 

 

 

それは家康が長生きしたからです。



この当時の平均寿命は40歳ぐらいだと言われています。

 

そんな中家康は74歳まで生きています。

 

 

ちなみに三英傑の中で織田信長は48歳、豊臣秀吉が62歳で亡くなっているので、圧倒的に長生きしています。

 

 

なぜそんなに長生きができたのかというと、

 

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健康オタクだったからです。

 

 

家康は鷹狩りなどの運動を行い体を鍛え、自分で薬を調合したりして常に健康を意識していたそうです。

 

 

また、遊女(売春婦)をかわなかったそうです。

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他の大名は行っていたことをしなかった理由でこの当時の流行っていた梅毒にかかりたくなかったからとも言われています。

 

 

 

 もし家康が秀吉と同じ62歳で1603年に亡くなっていたら、江戸幕府は順調にはいかなかったでしょう。

 

 

2代目将軍徳川秀忠にはそこまでの器量はありませんでしたから。

 

 

 

目標を達成するためにはまず健康でいることが家康が身をもって教えてくれています。

 

 

 

 


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